第七章 埴谷雄高と武田泰淳体験 一

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第七章 埴谷雄高と武田泰淳体験 一

前々回に申したように私は英語の講師から埴谷雄高の『死霊(しれい)』の存在を知らされることになったのですが、私はそれまでも本屋へ足繁く通っていましたが、埴谷雄高という名前すらそれまで知らなかったのです。
私は首都圏の終焉に位置する小都市で生活していましたので、それもむべなる哉、です。
埴谷雄高の本は私の経験上東京の大きな本屋以外で新刊本を見たことがありません。
私が英語の講師に言われるまで埴谷雄高を知らなかったのも無理はありません。

埴谷雄高の名を知って以上、私は間髪を入れずに古本屋へ行って、多分、第三章までが収録されている真善美社版の『死霊』を数千円で買ったのでした。

読み始めてすぐ、私は埴谷雄高にイカレてしまったのです。

何だ、この小説は!

埴谷雄高の『死霊』は私がこれまで読んだどの小説とも違っていて、その絶えず思考する『死霊』の登場人物たち全てに魅了されてしまったのでした。

今でこそ埴谷雄高の『死霊』は文庫本になり――これは本人の望んでいたことではありません――どの本屋でも文庫本を扱っていれば手に入るようになりましたが、私が学生時代には安保も疾うに忘れられた時代でしたので、古本屋以外には埴谷雄高の本は置いていませんでした。

それでは、私は埴谷雄高の何にイカレたかというと、「自同律の不快」に始まる埴谷雄高の「存在」に対する命がけの対峙するその思考の姿勢に胸迫るものがあったのです。

先に書いたように私は「存在」の陥穽に落っこちて這い上がれずにもがき苦しんでいたと書きましたが、その私に埴谷雄高の『死霊』は、私が求めていたものそのものだったのです。

私は毎日毎日毎日、『死霊』を読んでは、次第に『死霊』だけでは物足りず、古本屋で埴谷雄高全集を買うまでにある熱狂の中にいたのでした。

しかし、最初に言っておきますが、ドストエフスキイの『悪霊』と『カラマーゾフの兄弟』に触発されて書かれた埴谷雄高の『死霊』をもってしても、やはり、ドストエフスキイには全く比肩出来ないという感じが私にはあります。

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